赤い花の季節

『アフリカ夜想曲』主人公アーサーの息子、アルバートの話。(アフリカ夜想曲 | えりか書房 (narakawaerica.xyz)所収)

 私とコンラッドは、子供の頃からずっと一緒だった。ドイツ人の父親の血を引くひとつ年上のまたいとこ。親戚で、親友だった。彼は私の家でほとんどの時間を一緒に過ごして育ち、寄宿舎学校も、大学も一緒で、ずっと一緒にいると思っていた。
 年齢に対して子供っぽい私と大人びていた彼では、よく喧嘩もしたけれど、家族は忙しくて、なんだかんだで寂しかった私たちは大きな屋敷の中でよく一緒に遊んだものだ。
 私の父親であるグラニスター侯爵は花が好きだったようで、ヨークシャーにある家の庭園をよく手入れさせていた。そのせいか、私たちは幼い頃から庭園で一緒に時間を過ごすことも多かった。
 あの花の話をしたのは、いつのことだっただろう。多分、確かもう先の大戦が終わって、私が寄宿舎学校に行き始めた頃だったか。一九二〇年代の初め頃。私たちはやっぱり庭園にいた。
「きれいだね」
 私が赤い丸い花を摘み上げると、花の中で寝転がっていたコンラッドはそれを取り上げて、私のジャケットのボタンホールにそれを挿した。
「バート。君は、赤が似合うな」
 そう言われて微笑んだ私を、彼が眩しそうに見上げる。彼の指が軽く触れて、一瞬私の前髪を掻き上げた。自分がちょっと見ない美少年なのには、自覚がある。父親も祖父もそうだったから。
「この花の花言葉は、知っているか?」
 彼が尋ねた。
「ああこれ、リメンバランス・デーに着ける花だろう? ポピーか。なにか、死者を悼むとか、そういう意味があるのか?」
 リメンバランス・デーは十一月の、先の大戦の戦没者を追悼する日だ。皆、赤いポピーを胸元に飾って、死者を悼む。
「違う。形は似ているが、これはアネモネだ」
「じゃあ知らない」
 笑いの混じったため息にばかにされたような響きを感じて、私は少し機嫌を悪くして短く答えた。
「君の父上は花言葉にも詳しかったよ。それで、私も勉強した」
 彼はさらりとそう言った。彼は、多分私の父が好きだった。もちろん私も父のことが大好きだったが、そうではなくて、もう少し、踏み込んだ意味で。私はなんとなく気づいていたけれど、あまりそれについて深く考えたことはなかった。
 そういった面でも私は年齢より幼かったし、彼は年齢より大人びていた。
 ただ、彼は勉強したのだ。そのとき、遠いアフリカの地で勤務していた父のことを想いつつ。
「はかない恋、恋の苦しみ、薄れゆく希望、見捨てられる」
「なんだそれ」
 私は嫌そうな顔を作った。
「ギリシャ神話で風の神ゼフィロスが花の神フローラを妻にしたのに、結局彼は彼女の侍女のアネモネといい仲になったから、フローラが怒ってアネモネを花に変えてしまったんだよ。ゼフィロスは妻を止めなかった。それで、花言葉はアネモネ視点」
「それは侍女には災難だったね」
「まあ、ゼフィロスは遊び人で、最初から不倫だとわかっていたんだから、身の程知らずとも言えるけど。主人に誠実な使用人とは言い難い。それに、他人のものを欲しがるなんてするもんじゃないな」
 彼はそう言って薄く笑った。私とひとつしか違わない少年とは思えない、どこか色気のある翠の瞳。その笑顔には、「はかない恋」という言葉がぴったりだった。
 私はずっと、そのことを知っていたのだ。

 ずっと一緒だと思っていた私たちが一緒でなくなったのは、私が結婚の話をしたときだ。
 そのとき、私はのんびり煙草を燻らせつつ、書斎のソファの上で寛いでいて、彼はなにやら私の本棚から本を探していた。そのときまで、私は彼と一緒でいられなくなることなんて思いもしなかった。
「……え、ソフィアと、結婚するのか」
 手にした本が滑り落ちて、彼は本当に心の底からびっくりした顔だった。
 その話をしたとき、彼の表情を見るまで私は彼がてっきり喜んでくれるものと思っていた。そもそも私は彼女と結婚するのに、彼女の夫になれるというよりも彼と兄弟になれるということの方が嬉しかったし。
「いや、……ああ、そろそろ君が結婚するとは思っていたけれど、…まさか、自分の妹とは」
「ソフィアなら気心も知れているし、遠縁だから家柄も気にしなくていいし。君を兄と呼べるしな」
「まさか、今までそんな素振りもなかったが、君はソフィアのことが好きなのか?」
 彼の手は忙しなげに意味もなく、彼のスーツの袖を行き来していた。
「別に、そこまで考えていたわけじゃない。だが、私ももう二十五だからそろそろ結婚する必要があるし、幼なじみで好意はあるし、彼女を大切にする自信はあるよ。彼女もいいと言ってくれたし」
 侯爵家の直系長男、兄弟もいない。私のような立場であれば、むしろ恋愛で結婚することなどありえないと言っていい。彼もそんなことくらいとっくに理解していると思っていたが、彼は目に見えて動揺していて、滑り落ちた本にも気づかないようだった。
「それじゃあ私が女だったら、君は私と結婚したのか?」
「多分、そうだろう。君が断らなかったらの話だが」
 そこに大きな違いはなかった。ソフィアよりはコンラッドの方がむしろ気が合っていたから、彼らが姉妹だったら、私は彼の方を選んでいたかもしれない。
 彼は苦い笑いを浮かべた。
「……君、学校で悪徳に身を任せたこともないだろう。そんなので私の妹を満足させられると思っているのか」
 コンラッドは不穏な眼差しで私を追い詰めながら、距離を縮めてきた。
 そうだ、彼が学校で「悪徳」に身を任せたことがあるのは知っていた。上級生に、ひどく優しく触れられているのを目撃したことがある。首元を撫でられた犬のような、気持ち良さそうな、色気が溢れ落ちるような表情をしていた。
 男子だけの学校生活で珍しいことでもなかったが、私はあまり性愛に興味がなかった。私にとって、愛も性も全ては子孫を残すための義務なのだ。
「まあ、残りの人生で技術をなんとか獲得していくよ」
 ソファの腕に背中がぶつかり、彼に追い詰められていたことに気づく。押し倒されるような形になった。
「どのくらいできるか見せて」
 煙草を取り上げられて、煙草を咥えていた唇がたやすく奪われる。
「ん、」
 私の口腔内を彼の舌はゆっくり犯していった。与えられる口づけは甘くて、私の頭は回らなくなってしまう。
 男に抱かれることに別に興味もなかったが、誰かひとり男に抱かれなければいけないなら、それは彼がよかった。彼のことが一番、誰よりも好きだったことに違いはなかったから。
 彼の長い指が私のネクタイを解いて、首筋に何度か歯を立てられた。鈍い痛みがする。
「ああ、アルバート。君はどんな顔をして私にそっくりな妹を抱くの? ソフィアの前に、果てるところを私に見せて?」
 熱い息の中で彼は掠れた声で私に囁いた。彼の手で開かれたシャツの胸元に口づけが落とされ、下半身が服の上から撫でられる。彼は私の体で明らかに興奮していた。このまま身を任せても結婚前に一度くらい別に悪いことはない気もしたが、私は一応口を開いた。
「なあ、コンラッド。私たちは親友だな」
「知らない」
「私はまあ、君がこのまま勢いに任せても、君と親友も義理の兄弟もやっていく自信があるよ。そのくらいには君が好きだ。
 だけど君はそれでいいのか? 君が好きなのは、私の父上だろう。私はよく、似ているな?」
 父は数年前に勤務先の植民地で風土病にかかって亡くなった。そのときの彼の嘆きようときたら、何日も食事を喉を通らず、私が誰の父親だと聞きたくなるくらいだった。
 彼は私をまさぐっていた手を止めて、組み敷いた私を見下ろした。
 はたから見たら、随分と滑稽な格好だっただろう。彼は随分とそうして、私を見ていたし、私は乱された服のまま、彼を見返していた。
 やがて深い長いため息をついて、彼は私をそっと抱きしめた。
「……ばかだばかだと思っていたが、君は本当にばかだなあ……」
 そう囁きながら、耳元に何度か口づけが落とされる。
「ばかなことをしているのは、君の方だろう」
 父親と重ねて親友を襲って、これのどこがばかじゃないと言うんだろう。
「愛を知らない、かわいそうだけど幸せなバート」
 子供の頃のような愛称で、彼は私を呼んだ。やわらかく耳たぶが噛まれて舌で嬲られる。
「ソフィアとお幸せに」
 その声が震えているような気がして、私は聞いた。
「泣いてるのか? どうして……」
 確認しようとしたが、彼は立ち上がって私に背を向けたあとだった。
「変なことして悪かったな。ちょっと、頭を冷やしてくる。……じゃあな」
 コートを羽織る彼の手が震えていた。その後ろ姿を見ながら、泣かせるくらいなら体くらいやればよかった、と私は考えていた。囁かれた彼の言葉の意味は、わからないまま。

「あら、赤いアネモネね」
 二度目の大戦も終わった頃、私が持ち帰ってきた花に、兄に似た翠の瞳をきらめかせてソフィアが言った。
「あなたは花言葉なんて知らないでしょう」
 嬉しそうに妻が言う。
「知っている。君の兄上が教えてくれた。『はかない恋』『恋の苦しみ』、だろう?」
 私たちの間に沈黙が流れた。彼女も私も、還らぬひととなった彼のことを思い出したのだ。
 私が結婚の話をしてしばらくして、彼はかねてから誘いがあったらしいブレッチリーの政府暗号学校に勤め出して、私たちはばらばらになった。ドイツ人の父親を持つ彼は、その語学力を買われたのだろう。
 彼は私たちの結婚式にも新婦の兄なのに仕事が休めないとかで来なかったが、それでも不満を言うひとはいなかった。それからまもなく再び戦争が始まろうかというときで、彼の仕事の重要性は皆わかっていたからだ。
 そのあと彼は出張だかなにかで行ったロンドンで空襲に巻き込まれて、それきり帰ってこなかった。
「……アネモネの花言葉はそうだけど、色ごとに違う花言葉もあるのよ。私も兄上の受け売りだけど。……赤いアネモネはね、…『君を愛す』」
 君を愛す……。
 これを私の胸元に挿したときの、コンラッドの眩しそうな顔を思い出した。それから一度きりの口づけ。思わせぶりな囁き。別れ際の震える手。まさか。
 たとえそうだとして、だからなにか、私たちの関係が変わったわけでもないだろう。いずれにしても私は結婚したのだし、私の親友は、戦争で喪われる運命だったのだから。わかっていたからといって私にできたことはなにもない。彼にもそれは充分にわかっていて、だから私になにも伝えなかったのだろう。
 なにかできたとしたらせいぜいあのとき、一度きりの情事に身を任せたかどうかくらいだ。私は別にどちらでもよかったけれど、私がどちらでもよかったことこそが彼を傷つけていたのではないかと、そのとき初めて思い至った。だからといって私にできることはやはり、思い返してもなにもなかったが。
 妻は懐かしそうに、その赤い花を随分と長い間眺めていた。

 それから何十年か経って、こちらの世界より天の国に召された知り合いの方が多くなった。妻も息子も、あちらで私を待っていることだろう。そんな人生も悪くはなかった。
 それでも十一月になって街に戦没者を悼むポピーが溢れると、赤いアネモネを私の胸に挿した、兄のようだったひとを思い出す。私になにかできたわけではないのに、指先に刺さった木の棘のような、いつまでも取れない、目に見えない胸の痛みとともに。

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