しあわせな王子
『兎を見て冬吾を放つ』の冬吾が大学を卒業して1、2年後の番外編です。
三条さんは才木さんの同期。本編2話から出てきます。
兎を見て冬吾を放つ | えりか書房 (narakawaerica.xyz)
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俺はあんまり字を読むのが得意じゃない。
だからその日俺がそのことを知ったのは、一緒に住んでいる恋人の修二さんが、読んでいた新聞をテーブルの上に置きっぱなしにしていたからだ。
五歳の子供が親からの暴力で死んだという。そういうニュースが気になるのは、まあ児童養護施設で働いてるから仕事柄当然なんだけど。そのとき俺が特に動揺したのは、被害者の子供の名前が記憶の中にあったから。
記事に出てる土地は俺の知らない街で、その子は引っ越していたんだろう。でも俺は確かに、その子を職場で預かったことがあった。
ごとうせんせい。
仕事を始めたばっかりで、俺はまだ先生って言われたらドキドキしてた。そんなころに、しばらく一緒に過ごしてた子だ。
もう一度名前を確認して、俺は記事を読み直した。ダメだ。動揺して、気持ちが悪い。
「冬吾、どうした?」
俺は力が抜けてソファに座り込んでしまった。ちょうど風呂から上がってきた修二さんが俺の手にしていた新聞にちらりと目をやって、優しく俺から記事を奪い取った。
俺もまともな親がいないから、俺が自分のことを思い出していると思ったのかも。修二さんは黙って俺の隣に座って、俺の肩を抱いてくれた。
しばらくそうしていたら、落ち着いてきたのか声が出た。掠れ声だったけど。
「……なんでさあ、この世の中、ろくでもねえ親しかいねえの」
俺がそれだけ呟くと、修二さんは無言で、俺をぎゅっと抱きしめてきた。温かい修二さんの体温にほっとする。安心したら悔しくて、俺は修二さんの腕の中でひとしきり泣いた。
どうして。どうしていつも弱いやつらは死ぬんだ。それで俺は、なんにもできない。
「……な、冬吾」
俺が泣き疲れたころ。頭を撫でながら、修二さんが優しく言った。
「おまえが嫌じゃなかったら、三条のところに行ってみるか?」
「三条さん?」
泣きすぎて声がヘンだ。いい年してみっともない。修二さんはそんな俺でも、いつでも受け止めてくれるけど。
「三条はさ、あんなやつだけどほんと娘バカだから。おまえが嫌じゃなかったら、三条と奥さんと美桜ちゃんに、会いにいかないか?」
おまえが嫌じゃなかったら。修二さんは二回言った。なんでだろ。俺が三条さんと仲良くないからかな? 俺がいつも三条さんとケンカすんのは、三条さんは修二さんと俺が出会う前から修二さんの親友だって言ってきて、ふたりで仲良さそうなのがむかつくからだけど。別に、個人的に嫌いとかじゃない。
俺は修二さんがなんで俺を三条さんのところに誘ったのかよくわからなかった。ろくでもない親以外の親もいるってことを見せたいのかな?
だけど、俺にとって修二さんがやってくれようとすることを受け止めることは絶対正しい。俺はだから意味がわからなくても反対しない。
そんなこんなで、次の日曜日が休みに当たる日に、俺は初めて三条さんの家に行くことになったのだった。
「うわ、なにこれ! 何階建てなの?」
三条さんの家はマンションってやつの十五階だった。一階で部屋番号押すと部屋に繋がるやつ。三条さんが出ると思ってたら、女のひとの高い声で「はーい」とか言われて、俺はびっくりした。奥さんか。
なんだろ、あんまり女のひとに会うことないからな。仕事で会う女のひとって、おばちゃんくらいの年齢のひとが多いから。
エレベーターに乗って十五階に着くと、街の様子が見えた。だいたいのビルが見下ろせて、歩いてるひとも人形みたいに小さく見えて、めちゃくちゃいい景色だ。
俺がそれに気をとられていると、修二さんが俺の肩をそっと抱いて部屋の方に連れていった。なんかこういうのって、ホント恋人くさくていいよな。
俺は木のプレートのかかっている部屋の前で立ち止まった修二さんをそっと抱きしめて、小さくキスをした。
「こら」
言葉では怒っているけど、修二さんの声の響きは軽い。本気で怒ってるわけじゃない。
とはいえ三条さんが待ってるだろうから、俺はすぐ修二さんを解放してインターホンを押した。
「才木ですけど」
なんとなく、修二さんの名字が名乗りたくなって俺は言った。
玄関が開く。
「こんにちはあ」
玄関には、ボブのきりっとした雰囲気の女のひとと、俺の膝くらいの小さな女の子が立っていた。女の子は緑のレースのいっぱいついた、ふわふわしたワンピースを着ている。
俺は膝を折って、女の子に視線を合わせると挨拶した。
「こんにちは。俺は冬吾。こっちは修二さん。よろしくな」
女の子はスカートをつまんで、お姫さまみたいな礼をした。
「私はみおう! よろしくね、とーご!」
部屋に入ると三条さんがキッチンに立っていた。三条さんは料理できんのか……。出会ったばかりの修二さんは全然だったことを思い出して、俺は思わず微笑んでしまう。
「とーご! 今はね、読書の時間なの! どれがいい?」
美桜がたくさん本を抱えてソファに座った俺のところにやってくる。どうやら俺が、本を選んで読んであげないといけないらしい。
美桜は俺が選んだ本を手にすると、俺の膝に座ってきた。
「後藤さんごめんなさいね。美桜の相手、ちょっとお願いできる? 美桜、お客さんが大好きで」
奥さんの里香さんが、ちょっと申し訳なさそうに俺に言った。
「人見知りしないのはすごいねえ」
修二さんがのんびり言っている。
「そろそろ、人見知りするようになると思うんだけどねえ」
「人見知りする年? いくつくらいからですか?」
里香さんと修二さんが、幼児の発達段階について話し合っている隣で、俺は『しあわせな王子』を朗読した。テキトーに表紙で選んだけど、あんまり楽しい話じゃないな。
美桜はこのお話は本当にいいお話だわ、と感慨深げにうなずいていた。
三条さんが持ってきたのは手巻き寿司だった。テーブルの白いご飯の周りに、皿いっぱいの刺身とかエビとかイカとかイクラとかが並べられた。卵焼きも置いてある。三条さんが焼いたのか。きれいだな。
「好きなだけ食っていいぞ。たくさん買ったからな」
「マジで?」
俺は思わず聞き返した。そりゃあ修二さんと回転寿司に行ったこととか、修二さんが家で寿司を作ってくれたことはあるけど、家じゃふたりだけだし、こんなに好きなだけ食えるほどの量を見たことはない。
「とーごは何がすき? 美桜はね、きゅうり!」
里香さんの隣に座った美桜が言う。
きゅうりか。俺はなんだろ。
三条さんに言われたとおり思いっきり食べまくったけど、修二さんも三条さんも里香さんもにこにこしていた。エビもイクラもうまかった。
修二さんと家で飯を食うのは毎日幸せだ。誰か一緒に食べる相手がいて、それが修二さんなら言うことはなんもない。だけど、こうしてみんなで食べるのもいいなって思った。
三条さんと修二さんは少年法の話とか、修二さんと里香さんはミステリー小説の話とか、俺にはついていけない話もしてたけど。
みんな楽しそうだった。
俺は、食事が足りなくてひもじいこともなかったし、誰かの気が変わらないうちに急いで食べる必要もなかった。それにみんな俺の話を聞いてくれて、誰も、俺が傷つくようなことを言わなかった。
「ねえとーご! 美桜ね、ピアノ習ってるの! 聴いて! キラキラ星!」
食べ終わると美桜が立ち上がって黒いカバーのかかっている家具のところに行った。あれがピアノか。っていうか三条さんちピアノあるのか。
「すげえなあ」
三条さんと奥さんが食器を片づけている間に、美桜は言ったとおりピアノを弾いて、俺はびっくりして言った。まだピアノの前に座ったら足も着かないような子供が、ピアノを弾くなんて。
美桜は満足げに笑って俺を見て、それから俺に言った。
「とーご! おいで! 簡単だから教えてあげる」
美桜が呼ぶので、俺は隣に座った。
「これがド!」
「どれ?」
「最初のこっけんの前!」
「最初ってどれ?」
俺たちがわいわいやっていると、三条さんと里香さんが、ケーキを持ってやってきた。俺は甘いものが大好きだから、思わずそちらに目がいってしまう。それに気づいたらしい修二さんが微笑んだのがわかった。
「うわーうまそう」
なんだろ。紫だから、ブルーベリーチーズケーキかな?
「おまえチーズケーキが好きなんだろ?」
三条さんが聞く。修二さん、そんなことまで言ってたのか。
「美桜もママのチーズケーキ大好き! おんなじだね、とーご!」
隣の美桜が言った。ママの?
「このケーキ、里香さんが作ったんですか?」
また俺はすげえなって言ってしまった。だってホントに、買ってきたみたいだ。
俺は修二さんの隣に座って、ケーキを受け取った。美桜は三条さんに抱きついた。三条さんはそんな美桜を抱き上げて反対側のソファに座る。
「パパもすごいのー! パパはね、ピアノが美桜よりずっとうまいよ!」
マジで? 三条さんピアノ弾けんの?
またびっくりして顔を見た俺に、三条さんは照れた顔をした。
「まあもうだいぶ練習してないけどな」
「ねーパパ弾いてえ! とーごに自慢したい!」
三条さんは照れながら立ち上がってピアノに向かった。マジか。三条さんちマジやべえ。
三条さんがいなくなって美桜が俺のとこにやってくる。俺はまた膝に乗せてやった。
三条さんが弾いたのは、さっき美桜が弾いていたキラキラ星のなんかすげえやつだった。なんか指が多い。
そのあとなんか、普段の三条さんから想像できないほど静かできれいで優しい曲。けどちょっと、艶があって色っぽいのがやっぱり三条さんっぽい。
「三条さんすげえな!」
自分は結婚してんのに、やたらと修二さんにちょっかい出そうとするめんどくさいおっさんなだけじゃなかった。
「……これはモテるよな」
俺が思わず言うと、修二さんが隣でちょっと笑った。昔、三条さんがモテてたっぽい話は俺もなんとなく知ってる。
「とーご、大丈夫! とーごはね、パパの次にいいおとこだから美桜のカレシにしてあげるよ!」
俺の膝の上でそんなことを言いながら、美桜は俺の頭を撫でた。まったく断られることを考えてないような、自信たっぷりなかわいい笑顔だった。
修二さんが本格的に笑っている。
「美桜、ダメだ。俺は修二さんの彼氏だから」
「えー、美桜とーごとけっこんしたいぃ」
俺が断ると、美桜は俺の首に抱きついてきた。慌てた様子の三条さんが俺たちの間に入ってくる。
「美桜、パパと結婚する話はどうなったんだ」
「じゃあとーごはあいじんね!」
「美桜、愛人はよくない。美桜はパパの大切なひとが、ママと美桜以外にいたら嫌だろ。パパが愛人を選んでうちに帰ってこなくなるかもしれないんだぞ」
子供相手に大人げないと思いつつ、俺はつい強い感じで言ってしまった。俺は顔が怖いって言われるから、あんまり強い感じでは話さないようにって思ってるんだけど。
だけど俺のハハオヤだったひとは、俺のことなんて気にしないで、彼氏のとこばっかり行ってたからさ。
美桜はしゅんとした顔をして俺を見た。
「パパがいないのやだぁ」
「じゃあもう愛人とか言うな。わかった?」
うなずいた美桜を抱き上げて、俺は三条さんに返した。
「後藤くん、ありがとな」
「別に」
俺に向かって微笑んでくる三条さんを無視して、俺は修二さんに肩を預けた。修二さんも軽く俺の肩を抱いてくれる。三条さんは俺たちのこと知ってるからな。人前で俺が触るのを嫌がる修二さんも、三条さんの前では比較的リラックスしている。
それから俺たちは里香さんの淹れてくれたコーヒーを飲んで、美桜のリクエストで三条さんちのでっかいテレビでアニメを観た。
帰るころにはすっかり暗くなっていた。
美桜は別れ際に名残り惜しそうに俺にまたくっついてきて、ちょっと寂しそうな顔で「とーご、またきてね」と言った。かわいいな、と俺は思った。俺に兄弟がいたら、こんな感じだったのかな。
「楽しかったな」
駅への道を歩きながら、修二さんが言った。
めちゃくちゃ楽しかった。メシもケーキもうまかったし、美桜はかわいかったし、ピアノ触ったのも初めてだったけど面白かったし。
うん、って言おうとして、俺はなんでかうまく笑えない自分に気がついた。
修二さんが立ち止まると腕を回して、俺の頭をそっと抱き寄せる。
「大丈夫」
そう修二さんは言って、そっと頭を撫でてきた。もう一方の手で頰を撫でられて、俺は自分が泣いてることに気がついた。
なんだろ。楽しかったけど、なんか俺の胸にモヤモヤする気持ちがあったんだ。
「……なんで、なんもしないのに親に愛される子供と、がんばっても親に愛されない子供がいんのかな……」
言葉にしてみて、俺は自分が気になってたことがなんだかわかった。
美桜はこれから、俺とか、うちの職場に来た子供が何人かかっても足りないくらいの愛を受けて育っていくんだ。それが悪いわけじゃねえけど。
みんなそうなったらいいと思うんだけど。
なんか俺はそれにモヤモヤしてる。
なんだろ。うらやましい? ちょっと違う。
不公平? ああ、そうかも。
不公平だ。
「美桜、めっちゃかわいかったじゃん。だけど美桜がかわいいのはさ、三条さんにかわいがられてるからじゃん。うちの施設に来るやつらはさ、みんな俺たちを信じてないし、絶対あんなふうに笑わないよ。困っても大人に絶対相談しない」
俺が気になってるのはそういうことだった。俺の知ってる子供たちは美桜みたいに笑わない。美桜は、自分が何をやっても親が自分を見捨てることなんて、きっと考えたこともない。
「俺だってそうだったから、俺はわかるよ。俺は今は修二さんがいるからいいけど、全然誰もいないやつばっかりなんだ。あいつらがかわいくないのはあいつらのせいじゃない。あいつらが子供らしくいられるように、守ってくれる大人がいないだけなんだ。
ねえ修二さん、なんでこんな世の中なんだと思う?」
俺は昔みたいに、ぎゅっと修二さんに抱きついた。出会ったころはこうやってぎゅっとして一緒に寝て、俺は他人の修二さんに毎日甘えてた。付き合ってもいなかったのに。
修二さんはいつも困った顔をして、それでも俺を追い出しはしなかったっけ。
今日の修二さんもやっぱり困った顔をして、俺を否定はしなかった。
「俺は、大学に行ったらもっといろんなことができて、就職したらもっともっといろんなことができて、かわいそうなガキを救えると思ってた。だけど俺がわかったのは、俺が何をどうしたってこの世界はよくならないって、そういうことばっかりなんだ」
働くようになったらこのろくでもねえ世界をなんとかできると思ってたのに、救えないことがわかっていくばっかりで。
「俺も、霞ヶ関で働いていたときですらそう思ってた。冬吾、ごめんな。おまえが生きていく世界を、俺が守っていけなくて」
暗闇の中で修二さんの目が光る。そう言った修二さんはものすごく辛そうで、俺ははっとした。つい年上だからって甘えてばっかりだったけど、このひとだって俺とおんなじなんだ。
修二さんもこのくだらねえ世界をどうにかしたいって、だからそう思って赤の他人の俺の面倒をみてくれたのは、俺も知ってたことなのに。
「ごめん、修二さん。修二さんは悪くないよ。修二さんがいなかったら今の俺なんかどこにもいない。俺を救ってくれたのはあんただよ。俺は、自分に力がないのがイヤなだけ」
「そうか」
修二さんが俺を優しい目で見て、俺は修二さんの額に自分の額をくっつけた。
「おまえが、大人になったんだな。冬吾」
そうかな。そうかも。子供たちを救いたかったって思うのは、俺が年をとったせいなのかも。昔は他人のことなんてどうでもよくて。
十代のころはいくらでも他人を傷つけていて。だから俺は、修二さんに出会わなかったら、今でも傷つけている親の方だったかもしれない。
「あんたが誰かを大切にするってどういうことか、俺に教えてくれたから」
今日俺を、三条さんのとこに連れてきたのもきっとそう。修二さんは俺より愛ってなんだか知っていて、いつもそれを少しずつ俺に教えようとしてくれる。でもいつでも、無理にはしない。
修二さんのそういうところ、俺は本当に好きだった。俺は抱きしめていた腕を離して修二さんの首の後ろに手を回して顎を持ち上げると、その唇にキスを落とす。大好きだよ。
「修二さん…、俺を見るあんたの優しい目が好き……弱いやつを馬鹿にしないで、ちゃんと話を聞いてくれるところが好き。世の中の不公平に怒ってて、それをなくすようにしたいと思っているところも好き。あんたが、……クズを許したいと思っているところも好き」
「冬吾……」
キスの合間にささやくと、修二さんが気がついたように目を開けて俺を見た。あ、覚えてたか。
昔、まだ付き合ってないころに、こんなこと言って口説いたっけな。俺はあんたみたいになりたくて、俺は少しはあんたに近づいただろうか。
あんたは俺が世の中に怒っても、いつでも俺に謝ってくれる。世の中のせいにはしないんだ。あのときの俺はまだガキだったからわからなかったけど、何かのせいにしないことが大人でも本当に大変なんだって、今の俺にはわかるよ。
「ごめんね、弱音吐いちゃって。聞いてくれてありがと、また頑張る! そんでまた、三条さんのとこ遊びに行こ」
修二さんは微笑んだ。
世界は残酷で俺は無力だし、修二さんも無力だ。だけど俺たちはなんとかしたいと思ってる。いつかこの絶望的な世界にも、俺は一矢報いてやりたい。それはものすごく難しいけど、少なくとも修二さんも俺とおんなじことを願っている。
俺の隣に、俺と同じことを願っているひとがいて、いつでも俺を受け止めてくれる。それって本当に奇跡みたいに幸せなことだろ? だから俺はもう少しだけ、世界を信じて頑張ることにする。
俺は修二さんの手をとる。暗いし、人通りもないから手をつないでもいいだろ。
了解を取るように俺が見ると、修二さんは照れたように俺を見た。いいってことだろう。
俺は歩き出した。
隣に、大好きで大切でしかたがないひと。
修二さん。ずっと、ずっと一緒だよ。
終