ロード・ダニエルと秘密のピクニック・ティ

『ロード・ダニエルと聖リュカの誘惑』番外編。BL紅茶アンソロジーに寄稿したもの。『ロード・ダニエルとシバの女王』の後の話なので、ダニエルも結構しっかりしてきています。

ロード・ダニエルと聖リュカの誘惑 | えりか書房 (narakawaerica.xyz)

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 ケニアのナイロビ郊外に、グラニスター城と呼ばれる城がある。
 グラニスター城と看板の掲げられている警備員のいる門を通ると、車の幅と同じくらいの場所に街路樹が並ぶ。そこをしばらく行ったと感じられるあたりで、急に場所が開ける。平日の日中は一般に公開しているので、見学者用の駐車場だ。車を降りると、南国風の木々が並べられた広大な庭があり、その先には玄関に大きく獅子が象られた紋章を掲げた、三階建ての優美な屋敷が建っている。
 英国の植民地時代に、英国人である第十六代グラニスター侯爵アーサー・トーマス・グレイスモアが祖国から建築家を招いて作らせた彼の城だ。
 観光客が帰ったあとは、そのアーサー・トーマス・グレイスモアの玄孫、ロード・ダニエルがこの大きな屋敷の隅にひとりで住んでいる。彼は、現在のこの城の主である第十八代グラニスター侯爵の次男だが、まだ大学一年生で、この国に留学してきてからも一年は経ってはいない。
 彼がひとりで住んでいるというのは、やや語弊がある。この城の学芸員のリュカ・カリユキ・ブルトンは、ほとんどダニエルの部屋に住んでいるといっていいからだ。自分の部屋が屋敷に隣接する使用人用の小さな建物にあるにもかかわらず。
 国籍はこの国で、一番長く住んだのもこの国になるのだが、その外見はどこの出身とも言いがたい。西洋とアフリカの多くの血が混じりあった神秘的な顔立ち。烏色の暗い瞳には、どこか知的な雰囲気が浮かんでいる。そんな容姿をもつ彼は、ロード・ダニエルの十二歳年上の秘密の恋人だった。
 そんなわけでその日も、リュカは恋人のマスターベッドルームのソファで本を読んでいた。この館の最初の主人も目にしているという、華やかなりしパリ万博についての研究書だ。
 百年近く前からこの屋敷に置いてある、作りの良い置き時計に何度か目をやる。恋人からナイロビのバス乗り場からタクシーに乗ったというメッセージを携帯電話が受信してから、もう五十分は経っている。そろそろだろう。リュカは読書中だけ使う眼鏡を外して、ため息をつく。待ちくたびれた。
「ああ、疲れた! ただいま」
 足元に登山グッズブランドの、黒いリュックサックが投げ出された。それから痩身を際立たせる長い手足。
 お待ちかねの王子の登場にリュカは本をテーブルに置くと、立ち上がって両手を広げた。
「遅かったね。渋滞がひどかった?」
 恋人とお互いを呼ぶようになってから八か月あまり。最近はすっかり、人目がなければこういったときには自然に抱きあえるようになっていたのだが、ちょっと抵抗を見せた恋人を訝しがりながら、リュカは微笑みかけた。
「うん。あの混雑はひどいな」
 美しく整った眉を寄せて、ダニエルが言う。この一族が、代々人目を惹く美しい顔立ちを持っていることは、屋敷の廊下に並べられた肖像画からも容易に想像がついた。その中でもダニエルは、特に目を惹く高祖父譲りの印象的な紫の瞳の持ち主で、初めて会ったときから何度でもこの瞳に吸い寄せられてしまう。
「ああ、ダニー。マタツ(乗り合いバス)にだいぶやられたな」
 金色に輝く前髪から覗くその瞳から目を離せないまま、リュカはささやいた。
「……ん、」
 その形のよい唇に触れたい欲望に堪えきれず、やさしく抱き込んで唇を落とすと、少しためらってから恋人はそれに応えた。
「おかえり」
 こんなに近くでその顔を見るのもしばらくぶりだ。くちづけが終わってもひさしぶりの恋人を離しがたく思って眺めていると、腕の中の恋人は物言いたげに自分を見返した。
「どうしたの?」
 ダニエルは肩をすくめた。
「いや、マタツですっかり汗だくだから。膝の上には知らない子供が涎を垂らして寝ているし、足元では鶏がごそごそいうし。感動の再会はシャワーを浴びてからにさせてほしい」
 ばつが悪そうにそう訴えてきた恋人の表情をかわいらしく思いながら、リュカは苦笑した。
 この国の乗り合いバスは定員以上に人間を乗せるので、ひとり分の席にふたり以上が押し込められることがしばしばあるし、知らない子供を膝の上に乗せられるようなこともよくある。標高は二千メートル近く、そこまで高温でもないが、さすがに他人と何時間も肌を触れ合わせていれば汗もかくだろう。恋人はそんな汗くさい自分を気にしているようだ。どうせ夜に抱きあうときはお互い汗だくなのに。
「じゃあ早く入っておいで。それから感動の再会にしよう」
 大学の学会で、ダニエルはケリチョに三泊していた。リュカとしてはしばらくぶりの恋人をあっさりと手離したくはなかったのだが、仕方がない。
 そのとき、扉をノックする音がした。この力強い音は、メイドのフロレンスか。
「旦那様、リュカさん。イギリスからお荷物ですよ」
 ドアを開けてみると、段ボール箱を頭の上に乗せているフロレンスが現れた。この国では個別の配達がないから、郵便局か配送をしているバス会社のオフィスまで取りに行ったのだろう。リュカはそれを下ろすのを手伝いながら、差出人を確認する。
「あなたのご実家からだ」
 長旅をしてきた様子の箱にちらりと目をやって、リュカは言った。内容物に食器とある。よく関税を要求されなかったものだ。
「開けていいよ」
 すでにタオルを手にしていたダニエルは、そう声をかけてきた。
「ああ、そうそう。帰りのマタツが出発するのを待っているときに、紅茶を売りにきたご婦人がいて、断りにくくて買ってしまった。あとで淹れてもらえる?」
 ダニエルは手にした小さな紙袋をメイドに手渡した。いくらか、茶色い粉が外側についている。
 恋人は素直で、貧しいひとの押しに弱い。いいものしか口にしたことのない彼の口に合うとも思えないが、貧しいひとに大抵のことを頼まれると、断らないのが彼なのだ。
 この国のバスに出発時間はない。だから、乗客が集まるまで車内で待つことになるが、その間にひっきりなしに色々なひとがものを売ったり寄付を頼んだりしにやってくる。そんなひとたちが訴えるままに購入したのだろう。そんなところも今まで生活に困ったことのない、彼の育ちの良さを思わせる。危なっかしいが好ましいとも思う。
 ダニエルが滞在したケリチョは、彼の国の紅茶会社の大きな農園がたくさんある町だ。とはいえ、この国の路上で売っている紅茶なんて、彼の国に輸出した残りのあまり質のよくないものだが。
 リュカは手早く近くにあったハサミを手にすると、箱の蓋を開けた。
 新聞紙の塊がいくつも出てくる。ひとつを解くと、中から銀食器が出てきた。ティーポット、キャディスプーン、カトラリー。美しく彫られた細工とともに、それぞれの食器にイニシャルが彫られている。AとG。Aから始まるとしたら、この城を建てたダニエルの高祖父かその息子だろう。ピカピカに輝いている。百年以上、ちゃんと磨いているのだ。同じ作業をここの使用人に頼めるかどうか。
 そんなことを考えながら箱をあさっていると、今度は美しい花柄のティーカップが出てきた。ひとつひとつ取り出して、ローテーブルに並べていく。十二客。なかなか壮観だ。
 一年の月ごとにそれぞれの月の花が描かれている。内側まで贅沢に花が描かれていた。裏側をひっくり返すとロイヤルの文字があるのを見るに、王室御用達のブランドのようだ。
 末っ子のダニエルは家族に溺愛されているようで、時々彼の実家からはこんなふうに現地を思わせる贈り物が届く。そのたびにリュカは不思議な、なんともいえないどこか憂鬱な気持ちに襲われる。
「素敵なカップですね!」
 フロレンスが嬉しそうに言う。この国の使用人は、ダニエルの国とは違って感情を自由に表現する習慣が身についている。
「ああそうだ。リュカ、ピクニック・ティをしよう」
 ダニエルが銀食器を手に取りながらそう言った。
「ピクニック・ティ?」
 リュカが首をかしげると、ダニエルが微笑んだ。
「ほらこれ。下にアルコールが入れられて、お湯を保温できるようになっているんだ」
 ダニエルが手にしていた銀食器は、ティーケトルだった。一見やかんだが、その下に足がついていてアルコールを入れられる部分があり、保温できるようになっている。足の部分だけ取り外し式で、湯を注ぐ際には取り外すようだ。今となっては、魔法瓶でもあればそんな機能は特に必要ないのだが、彼の家では古いものを大切に使っているのだろう。
「これで庭でお茶をしながら、ピクニックをするんだよ」
 ピクニックなんて、シャワーを浴びてくるというのにまた汗をかきそうだ。それでも、木陰なら気持ちがいいか。
「子供のころによくやったんだ。フロレンス、庭にお茶の用意をしておいてもらえる? カップは五月と六月がいいな。準備ができたらリュカは外で待っていてくれ」
 懐かしい記憶を思い出しているのか、恋人は楽しそうにそう言ってウインクをする。リュカは、浴室の方に歩いていく恋人を見送った。

 気の早いジャカランダの花が咲き始め、少しだけその花弁が大地に落ち始めている。もう一ヶ月もすれば、大地はジャカランダの花で一面紫になるだろう。
 その上にチェックのマサイブランケットを敷いて寝転んで、リュカはダニエルと出会ったころのことを思い出していた。最初に出会ったのは、彼の国の夏季休暇のころだから、きっと今ぐらいの季節だった。
 彼はまだ十歳かそこらの子供で、その夏いっぱい、彼は両親とこの城に滞在していた。リュカがまだここの管理を任されて、それほど経っていないころだ。
 両親は忙しそうで、幼いダニエルがひとりで遊んでいるのにリュカは気づいていた。人目を惹く外見だなとは思ったが、彼がなによりもリュカの心を惹いたのは、リュカの夢に何度か出てきたひとだとわかったからだった。
 ある日リュカはこの木の下で本を読んでいて、いつの間にか眠ってしまった。その日も彼は夢に出てきた。ちょうど、今の彼よりももう少し年上くらいの青年だっただろうか。夢の中で、彼は愛おしげに自分に触れていた。恋人に対する優しいしぐさで。そんなに大人になっていて、どうして彼だとわかるのかと聞かれると困るのだが、リュカはそれが彼なのだと確信していた。
 目を覚ますと、自分の隣に彼が寄り添って横たわっていた。小さな子供なら、そんなこともあるだろう。
 それでも、リュカは彼が自分の恋人となるのだと確信して、彼を腕の中に抱きしめた。きっと彼もそれを知っていたと思う。
 ダニエルはよく懐き、その夏はふたりにとって蜜月と言ってよかった。もちろん十二歳も年下の子供相手なのだから、保護者と子供の一線は保っていたけれど、好きなだけお互いと過ごせる時間は幸福だった。ダニエルはそんな年頃の少年にしてはおとなしく、リュカの語る神話や伝説の話を興味深げに聞いていた。
 夏季休暇が終わって英国に帰りたくないと泣く彼に、大人になるまで待っていると約束したのは自分だったし、彼は戻ってくると確信していたが、それでも去年、大学生になって本当に戻ってきたときはとても嬉しかった。当然のように恋人になって、それ以来おおむね穏やかな関係が続いている。
 味が気になって、リュカはカップに恋人が買ってきた紅茶を注いだ。恋人はまだ来ないが、戻ってきたらまた淹れ直せばいいだろう。
 銀色に輝くティーポットから、細かい茶葉が流れ出てくる。
 Crush, tear and curl.
 押し潰し、引き裂き、丸める。その頭文字を取ったCTC製法で作られた細かい茶葉だ。短時間で濃い茶を淹れるために作られたが、そのぶん香りや個性はあまりないし、長めに淹れるとすぐ苦くなってしまう。この国の紅茶はだいたいこの製法で、大学時代に留学したヨーロッパでそうでない大きな茶葉を初めて見たときには驚いた。
「土くさい……」
 うっすらと鼻元をかすめる香りに、リュカは眉をひそめた。
 生活の苦労もなく、家族の愛情に包まれて素直に育ったダニエルのそばにいると、なんとなく自分はこの茶葉に似通っているような気がしてしまう。
 女性を愛することができない自分を受け入れられない家族とは長く絶縁状態だし、肌の色が周りと違う自分は留学時代にも色々と思い出したくないことがあった。どこか、自分も押し潰されて苦味の強い存在になっている気がする。
 ダニエルの素直で伸びやかなところは好ましいと思っているし、自分のような目に遭わなかったことに嫉妬しているわけでもない。
 そばにいるのが嫌なわけでもない。素直で寛容な彼はいつだって救いなのだ。ただ、自分の手元に置いておくのがいけないような、彼にはもっと光り輝く世界があるような、そんな不安にときおり襲われる。
「薔薇だ」
 上から声がして、リュカは視線を上げた。ダニエルだ。普段は輝く金の髪が、水に濡れて少し色が濃くなっている。ドライヤーを使っていないようだ。
 彼は気にした様子も見せず、リュカの隣に座り込んだ。
「ああ、六月か」
 彼の母親から送られてきたカップに描かれている花の話だった。彼の国では、六月は薔薇の季節だ。自分の誕生月でもあるので、彼はこれを選んだのだろう。もうひとつの五月は彼の誕生月だ。
「こんな色の、薔薇の花言葉はなにか知ってる?」
 カップを置くとリュカは半身を起こして、そっと、恋人の耳元にささやく。
 くすぐったそうに、恋人が首を逸らした。
「なんだろう? 薔薇の花言葉はたくさんあるだろう。なんだか、情熱的な感じがするけれど」
「『あなたを愛している』」
 恋人の目を見てそうささやくと、恋人はキラキラした眼差しを自分に向けた。このまま情熱的なキスをしたいところだが、使用人に見つかると面倒なことになる。この国では、男どうしで愛しあうことは犯罪なのだ。
「おかえり、俺の愛しいひと」
 見咎められても問題のないように、そっと、指先で恋人の指先に触れる。恋人は照れたように微笑んだ。こんなところは本当にかわいい。
「ただいま」
 こうやって恋人のすぐ隣にいると、このままずっとそばにいられたらという願望で胸がいっぱいになる。本当に、それが許されるなら。
 長い間指を絡めたまま彼を見つめるだけの自分に呆れたのか、小さく笑いを漏らして、ダニエルが言った。
「ねえ、リュカ。お茶が冷めてしまうよ」
 そのとおりだ。言われて恋人を解放すると、リュカはティーポットを手に取った。
 五月のスズランの絵柄のカップに中身を注ぐと、ダニエルに手渡す。
「はい、ミルク」
 英国人のダニエルが、紅茶にミルクを入れないことはほとんどない。ミルクが入れば、だいぶ土くささも解消されることだろう。この国では、一般的には紅茶はミルクを入れた状態で最初から大鍋で煮出してしまうことが多いが、それはきっとその香りのためだった。
「ありがとう」
 ミルクピッチャーから注ぎ込むと、ダニエルは微笑む。
「ああ、落ち着くな」
 恋人は一口飲んでそう言った。
「落ち着く?」
「ああ。実家でよく飲んでいたのは、ケニアとスリランカのブレンドのお茶が多いから。懐かしい気がする」
「まあ、この国はあなたのご先祖様の庭みたいなものだから」
 リュカは肩をすくめてそう言った。この国で紅茶栽培が始まったのは、彼の国がこの国を植民地としたのと同時期のことだ。そうして、ここで農園を経営することができるのも長らく彼の国のひとだけだった。自分のところで自分たちが育てても、自分たちのものになることはなかった。
「うん。ケリチョから帰るときに一面の茶畑を見た。ずっと、ずっと続いていて、たくさんの女性たちが茶摘みをしていた」
「ああ、そうだろうな」
 ダニエルは遠い目をする。その女性たちを思い出しているのか。自分の言い方が非難がましかっだろうか。そのことで、ダニエルになにか思うところがあるわけではない。ほんの十九年前に生まれた優しい恋人が必要以上に気にしているかもしれないと、リュカはふと心配になる。
「ここに来てよかった。自分が食べたり飲んだりしているものが、誰が作っているものかわかって」
 ダニエルがそっと、片手でリュカの指先をとった。
「君と出会ってからは、紅茶缶に書かれたこの国の名前を見ては君のことを考えていた。あの四六時中天気の悪い私の国と、太陽に溢れた君の国とがつながっている証のような気がして」
 目を閉じたダニエルが軽く喉を鳴らして、音だけで指先にくちづけを落とすしぐさをする。
「それだけで単純に喜んではいけないことだと思うけれど、それでも君と出会える運命をくれたことは、高祖父たちに感謝したい」
 再び目をひらいた恋人にまっすぐに見つめられてそんな言葉をささやかれて、リュカは年甲斐もなくドキドキしてしまう。まったく、自分の方がずいぶん年上だとか、そういったことは簡単に飛び越えて自分はこのひとに恋をしていると思い知らされる。
 あとで部屋に戻ったら存分にその想いをぶつけたい。指先の熱を感じながら、リュカはそう思う。
 リュカが口を開こうとしたとき、ダニエルの腹が鳴った。長時間の移動で、思うように食事がとれていなかったのだろう。リュカは思わず笑いを漏らしてしまった。恋人がまだ、成長期の中にいる年若い青年だったことを思い出して。
「ああ、腹が減っただろ? フロレンスが色々作ってくれてる」
 リュカがそう言うと、ダニエルは悔しそうな顔をした。ダニエルにしても、それなりに恋人を口説こうとしていたのだろう。空腹のせいで決まらなかったことが不服なのだ。そんな表情もかわいらしい。
 リュカはメイドが用意したバスケットを開けた。白い皿にラップのかかった軽食が入っている。この国の食べ物と、彼の国の食べ物は半々ぐらいだ。食はお互い自分が育った国の方を好む傾向にあるから、彼の国の食事も再現できるメイドは優秀だ。
 ダニエルは、手渡されたきゅうりのサンドイッチをかじりながら、今回の旅程について話し始めた。疲れたとは言っているが、それなりに楽しんだらしい。彼の自国との生活とはだいぶ異なるだろうが、それでも楽しそうに話している彼を見るのは楽しい。
「谷間の百合」
 恋人は紅茶を飲み終わると、彼にしては珍しく行儀悪くカップを裏返した。カップの裏にカップに描かれている植物の名前が書いてあるので、それを読んでいるのだ。彼の国ではスズランを谷間の百合と呼ぶ。彼の誕生月にふさわしい、一見清楚でおとなしく、それでいて華やかさも毒もある花に、まったくぴったりな名前だ。
「うーん、なんだろう、これ。ハート型? リュカ、これはなにに見えると思う?」
 ダニエルは手にしたカップの上下を戻して、その中を覗いている。リュカに見せてきた。どうやら裏返したことに関係があるらしい。
「なにって?」
「茶葉の形。紅茶占いをやってみようかと思って。飲み終わった紅茶のカップに残った茶葉の形から連想される形で、考えていた質問の答えを教えてもらうんだ」
 紅茶占い。彼はそんな少女のようなことを信じているのだろうか。相変わらずかわいらしくて、リュカは思わず微笑んだ。
「あ、子供っぽいって思ったな。これはヴィクトリア朝から続く私の国では由緒ある占いなんだぞ」
 そう言いながらも、彼も笑っている。そこまで真剣ではないのかもしれない。
「ああ、言われてみればハート型にも見える」
 覗き込んで、さらにリュカはつけくわえた。
「これは、スズランみたいな形にも見えるかな」
「そうか」
 思案顔のダニエルに、リュカはふと疑問に思って尋ねた。
「なにを占ってるんだ?」
「うん。リュカの元気がなさそうだから、どうしたらいいですかって」
 言われてドキリとする。そんなに態度に出ていただろうか。
「元気がなさそうだった?」
「ああ。違う?」
 小首を傾げて、ダニエルが自分を見てくる。心配されるなんて、十二歳も年上で情けない。
「大丈夫」
 リュカが答えると、ダニエルは言った。
「リュカ、別に元気がないなら無理しなくていいからな。私だってもう大人の男なんだし、君を支えられる」
 目の前の恋人は真剣な顔をしている。いじらしい幼さの中に、芯のある大人の男らしさも見え隠れして、リュカは初恋をしている少年かのように心臓が跳ねてしまうのを止められなかった。
「リュカ。君だって私の愛しいひとだ」
 今すぐにくちづけられそうな近さで、恋人が重ねて言ってくる。本当に彼は、もう十やそこらの子供ではないのだ。
「……ありがとう」
 動悸を抑えながらリュカがささやくと、恋人は満足げにうなずいた。この愛おしい、清楚でおとなしく、でも華やかで死にいたる毒も持つ花。
「ねえダニー、スズランの花言葉を知っている?」
「さあ?」
 ダニエルの不思議そうな声が聞こえた。
「『幸福の再来』。あなたの国では、暖かくなるとこの花が咲くんだろう?」
「ああ、なるほど」
 納得がいったようなダニエルの声がする。本当にこのひとは、やっと手に入れた春のような気配がある。甘やかなその毒で、自分の息の根は簡単に止められてもしまうのだけれど。
 それでも。ああ、この九年、自分はどれだけ春の再来を待ち望んでいたのだったか……。

 夜。リュカがシャワーから戻ってくると、ソファの上にダニエルのほっそりした体と長めの両手両足が投げ出されていた。小さく寝息がきこえる。
「ああ、お疲れかな」
 リュカはダニエルの、今にもてのひらから滑り落ちそうな本を拾い上げてテーブルに置く。
 今日のピクニック・ティは楽しかった。ダニエルも楽しそうだったし。
 この恋人と時間を過ごしていると、どんな時間も抗いがたく幸福になってしまう。ふさわしくないのではないかとか、そんな不安はどこかに消えてしまうのだ。
 そっと抱き上げると、恋人を寝室に運んだ。一瞬起きたようだが、ベッドに横たわった恋人は、またすぐに夢の世界に旅立ってしまう。しばらく恋人の寝顔を眺めて、その額に唇を寄せた。起こさないように、そっと。

「ゆっくりおやすみ。俺の、谷間の百合──」

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