さよなら僕の最後の恩寵(冒頭試し読み)

1 秋学期

 ──すっかり飼われることに慣れてしまった。

 今日の会議の結果を思い出しながら、アルフレッド・ノートンは職員寮へと歩を進める。
(生徒の名前くらいちゃんと読めよ、くそ狸)
 思い出すだけでイライラとする。生徒指導主任のドンのことだ。
「あの野生の国から転校してきた、レオン・なんたら・グリンフォードですが、ノートン先生に指導をお願いしてはどうかと思うのですが」
「ノートン先生は、地理の先生ですよね? 国際交流のお勉強の機会にもなるんじゃないですか」
「地理は高校(アドバンスト)レベルで選択する生徒も少ないですし。仕事は平等に分け合わないと」
 自分の知らないところでどうやら話が進んでいたらしい。自分に集まった視線に眉をしかめながら、アルフレッドは尋ねた。
「なんたらというのは?」
「ルー、メイ、アン? なんかあっちの名前ですよ。母親の方の。あのグリンフォード財閥の新しい『ご子息』の」
「新しいご子息?」
「ご存じないんですか? グリンフォード氏はご存じのとおりいくつも会社を経営されている大富豪ですが、ご長男は若くして亡くなって、ご次男もちょっと、……残念で」
 残念。アルフレッドはちらりと、かつて学校に在学していたその少年の姿を思い出す。
 ノートン先生。先生に会えてこの子も喜んでいます。
 十八歳にもなって、ぬいぐるみを抱えて過ごしていた男子生徒。少し知的に制約があったのだ。いつまでもにこにことして、この世界の醜さなんて、なにひとつ知らない笑顔で、自分に微笑みかけてきたものだった。
 この学校は優秀な子息を輩出することで有名だが、一方でそれは、授業についていけない生徒の指導を切り捨てるということでもある。アルフレッドは何度も、彼にふさわしい勉強ができる学校に転校を薦めるように、ドンに訴えてきたのだ。それを、彼の父親が望まないからと言って、まるでなんの問題もなかったように報告し続けていたあの古狸。
 彼にだって、彼にできる範囲での能力の伸ばし方があったはずなのに。
「つまりその、残念な次男に見切りをつけて、外国の、ケニアかどこかで愛人で生ませていた息子をこちらに呼び寄せたわけですよ。跡取りとして」
「ああ、それがこの転入してきたグリンフォード・ジュニアというわけですね」
「そんなわけで、指導をお願いしますよ、ノートン先生。彼をまっとうな英国人に仕立てあげてください」
(クソ親め! 金がかかる寄宿学校に突っ込んどきゃ、子供が勝手に自分の望んだようにできあがるわけじゃないんだぞ) 
 学校内での派閥に巻き込まれるのも面倒で、特にどこにも属していない自分としては、表立って断るのも角が立つ。
 今まで英国に住んでいなかった息子を英国人らしく仕立てあげるのを期待されているとすれば、自分はどう考えても適任ではないが、自分以外の教員にも適任ではないだろう。教師を何年かやってきて、昔のように戦うことに疲れてしまった彼は、あれこれ言うエネルギーももったいなくて、反論もせずに引き受けた。
 見ているだけでイライラが蓄積してしまう生徒指導主任のドンの笑顔を思い出しながら、アルフレッドは足元の落ち葉を踏みしめる。自分の目と髪と同じ、秋の色。
 湿った空気が立ちこめて、地面はしっとりと濡れている。
 英国の九月はもう夏ではない。赤道の国から来た転校生は、そりゃあ不適応にもなることだろう。
 ひとまず安定だけは保証されているが、それ以上はなにもない自分の職場での今後も思いやられて、アルフレッドはためいきをつく。
 その時だった。
 ガサリ、と目の前の木立が揺れる。
 そこに見覚えのある少年が倒れこんだのを見て、アルフレッドは現実に意識を向けた。
 どうやら誰かに殴られて、彼はそこに倒れているようだ。
 しかし十代の男子っていうのは、なんでこんなに元気がありあまっているんだ? いつも思うが、活きがよすぎる。
 路上で見かけたなら放っておくだろうが、自分の職場ではそうもいくまい。建前上は自分は教員なのだし。
「ミスター・ブライト。なにをやってるんだ?」
 倒れこんだ少年の名前を呼ぶと、彼もアルフレッドの方を見た。アングロサクソンらしい金髪碧眼。最上級生のブライトだ。
 名前を呼ばれてアルフレッドの方を見た彼は、ばつが悪そうな顔をした。それからぱっと立ちあがると、さっと駆け出す。
 身元は割れているのだが、自分が他の教師に言いつけても、それほどの力のない教師だと踏んでいるのだろう。
 アルフレッドはブライトが先ほどまで倒れこんでいたところまで歩いていくと、ゆっくりと後ろを振り返る。
 頬から血を流している乱れた制服姿の少年と目が合った。
「逃げたってことは、やっぱり彼も悪かったのかな?」
 微笑みながらそう言って、目の前の少年を観察する。
 英国以外の血を引いているのは間違いない、エキゾチックな容姿。癖のある髪も肌も瞳も、全部がつややかな黒だった。
 一学年五十人。少人数制のこの学校で、ほとんどの生徒の顔は知っている。それで、自分が誰かわからない生徒。つまりそれは……。
「あ、」
 声を漏らした少年に視線を合わせて、アルフレッドはもう一度微笑んだ。
 自分よりすでに背が高いから、少し見あげる格好だ。
「はじめまして、転校生かな」
 その声を聞いた少年は、我に返ったような顔をして、突然逃げ出す。
 アルフレッドは追わなかった。
 明日以降には彼を追う仕事が待っているのだから、今日はもういいだろう。
 すっかり夕闇が立ちこめている。吐く息も白くなってきた。
 とりあえずふたりとも、走ることができるくらいには元気のようだし、労働時間には遅すぎる。明日の仕事は明日しよう。
 肩をすくめて、彼は闇に向かってつぶやいた。
「はじめまして、レオン・レマヤン・グリンフォード」

 転入生は、馬泥棒なのだという。
 授業が終わってから、夕食まで寮生たちは自習時間だ。
 下級生たちは集団で監督されているが、卒業までの最後の二年間ともなると、みんな学校内で自分の自習室(スタデイ)が与えられているから、それぞれの部屋に引っこんでいる。
 次の自習監督の当番は来週なので、本当は今日は四時には職員寮に帰れるところだったのだが。翌日。アルフレッドは小さく心の中でためいきをついて、グリンフォードの自習室の扉をノックした。
「ミスター・グリンフォード? ちょっといいかな?」
 この名前を口に乗せるのは久しぶりだ。
 扉が小さく開いて、予想どおり昨日の少年が顔を出す。いや十七歳というから、青年だろうか。しかしその深い夜の闇を思わせる漆黒の瞳に沈むいぶかしさはまったく隠されることなく、未だ成熟していない少年を思わせた。
「地理学のノートンだ。君は僕の授業をとっていないから、はじめましてだが、まあ、昨日会ったよね?」
「昨日のことを怒りにきたんですか」
 言葉だけは丁寧だが、警戒心が冷たい声からあふれ出している。
「いや、話したいのは昨日のことじゃないんだけど、いずれにしても、怒りにきたわけじゃない。話をしたいんだ」
 廊下を笑いながら他の少年たちが駆けていく足音がする。上級生にもなって廊下を走っているのがわかったら、またドン先生に新しい指導を押しつけられるな。
 しかし、今は目の前のこの、野生の獣のように警戒心の強そうな生徒のことだ。
 他の生徒にはあまり見られたくない。指導なんて、人前でするものではないのだ。
「少し君と話したいんだけど、中に入れてもらえるかな?」
「今ですか?」
 自分に向けられる少年の視線はきつい。自室はプライベートなものだ。今後ここで大学受験の勉強までするというのに、ほぼ初対面の自分が入るのも侵襲性が高い。
「ああ、君の部屋じゃなくてもいい。どこでも、静かに話せればいいんだ」
 アルフレッドは少し空を仰いだ。
「そうだ、馬に餌をやりにいこうか」
「餌ですか?」
 警戒心のみだった少年の表情が、少し動いた。少し、期待が入り交じっているように見える。
 自分の提案に手応えを感じてアルフレッドは安堵した。馬を盗もうとしたと言われているくらいなのだから、馬に興味はあるのだろう。
 罰として馬小屋の掃除をさせておいたとでも言っておけば、あの狸にも言い訳が立つし、指導としてもまあ形にはなる。
「そう。どうかな?」
 少年は少し考えるそぶりをして、それからうなずいた。
「行きたいです」
 アルフレッドは微笑んだ。少年の方も警戒心が少し緩んだようで、こころもち表情が明るくなる。
 不良少年向けの営業スマイルだなあ、とアルフレッドは心の中で自嘲した。
「上はジャージの方がいいかな。制服のジャケットは汚れると面倒だからな。体操服に着替えておいで」
 少年はざっとジャケットを脱ぎ捨てると、壁にかけてあったジャージの上衣を羽織る。英国以外の血を引いているせいか、ずいぶんしっかりした体つきだった。
「じゃあ行こう」
 自分より体の大きい生徒に微笑みかけて、アルフレッドは自習室をあとにした。

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